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独り言

幸いにして日本人に生まれた:夏目漱石

明治41(1908)年に書かれた夏目漱石の『三四郎』の小川三四郎は

上京する列車で「広田先生」と出会う。

駅で西洋人夫婦を見かけた広田は「御互は憐(あわ)れだなあ」と、つぶやく。

「こんな顔をして…日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」とも言う。  

三四郎は「これからは日本も段々発展するでしょう」と反論するが

「亡(ほろ)びるね」と切って捨てる。

 

「漱石は後の大戦の結果を読んでいた」として、自虐的史観の持ち主がしばしば引用する場面だ。

日露戦争に反対した平和主義者」だという「極論」もある。  

 

しかしその1年後の明治42年に漱石が広田と逆の考えを書いた随筆が見つかった。

満洲日日新聞」に掲載の「韓満所感」である。

漱石はこの年の9月から約1カ月半満州や朝鮮を旅行する。その印象を記したものだ。

それによると、日本の内地で跼蹐(きょくせき)(肩身狭く暮らす)している間は

「日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまい」と考えていた。

だが満州や朝鮮で「文明事業の各方面に活躍」しているのを見て

「日本人も甚(はなは)だ頼母(たのも)しい人種だ」との印象を刻みつけられた。

そんなふうに書く。日露戦争から4年ほど後のことだ。

 

多くの日本人が新天地で、日本のためだけでなく当地の発展のためにも必死で働いていた。

その姿に漱石は素直に自虐的日本人観を捨てたと見ていい。

「幸にして日本人に生れたと云う自覚を得た」と胸を張ってもいる。  

そんな在外の日本人たちも戦後「植民地主義の先兵」とされてしまった。

いまだにそのフィルターを通してしか歴史を見られない人たちも多い。

それに比べ、時代が違うとはいえ文豪の視線は確かなものに思えるのだ。

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自虐史観

日本人は、※1「和をもって尊しとなす」(聖徳太子)や「世間」があるので

集団から個人が飛び抜けたりしようとはしない(出来ない)人種でなのでしょう。

※1【「和」の本当の意味は、自己に正直に生きるということ、自分を裏切らないということです。

不平不満があれば、正直に表現してぶつけ合うこと。その中でお互い歩み寄り(妥協ではない)

理解していくことが「和」である。】

 

でも、、、いつまでも引っ張られすぎでしょう。。。

いい加減このネット(情報)社会、勉強して行きましょうよ。ね。

2000年以上も続く日本の偉人たち(先人たち)が教えてくれていますよ。